相談役のひとりごと | 荒川産業グループ モノを、ヒトを、マチを。 Fri, 05 Apr 2024 04:51:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.6.2 /images/cropped-favicon-32x32.png 相談役のひとりごと | 荒川産業グループ 32 32 【コラム】同業5社比較5 /news/colum-five-companies-in-the-same-industry-5/ Mon, 08 Apr 2024 01:00:12 +0000 /?post_type=news&p=5428 続きを読む]]> わが社に関連のある同業者、①直富商事(株)長野市、②豊和商事(株)三条市、③山本産業㈱JマテH(株)上越市、④セキヤ(株)新潟市白根、 ⑤(株)青南商事弘前市との比較をしてみました。
H4年、直富商事が中国長春に事業所開設、非鉄雑品の中国輸出が定着する中で、中国へ事業所を作る会社が増えていった。この他にも米沢市の原幸商店の連雲港、ヨシムラ、上マテの上海、伊藤忠商事の大連への進出があったが、いずれも運営に失敗しその後撤退した。
H6年、燕市の三星金属工業が信濃川河畔井土巻から越後線沿線小関へ移転。 H7年、セキヤがその近傍に県央支店進出、やがてH18年の木くずリサイクルを中心とした県央エコプラント建設につながる。
青南商事はH5年に青森支店、H6年に青森支店へのフェライト混濁液による重液選別施設導入、H8年に青森RER(リニュアブルエナジーリサイクル)のシュレッダーダストによる流動床発電施設稼働、H9年に青南エキスプレス設立、東北道を緑のトレーラーが疾駆。H10年、田舎館非鉄手選別ライン稼働と止まることを知らない快進撃。
H4年、我が社も(株)ウエステック設立、喜多方市内に企業アライアンスを構築。H6年に本社を新築、地域への情報発信拠点を目的にしたリサイクルミュージアムくるりんこ開設。H8年、会津若松市に2番目の事業所となるアマルクを開設。アマルクのロゴの初登場となった。
※荒川通信No.41から抜粋
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【コラム】同業5社比較4 /news/colum-comparison-of-five-companies-in-the-same-business/ Wed, 06 Mar 2024 23:00:57 +0000 /?post_type=news&p=5354 続きを読む]]> わが社に関連のある同業者、①直富商事(株)長野市、②豊和商事(株)三条市、③山本産業㈱JマテH(株)上越市、④セキヤ(株)新潟市白根 ⑤(株)青南商事弘前市との比較をしてみました。
山本産業が鳶土工業取得、豊和商事は産業廃棄物処理業取得など隣接する業態への進出や青南商事の盛岡支店、仙台支店開設、シュレッダーの導入も仙台、秋田臨港、八戸と立て続けの設備投資には驚いた。しかも自社エンジニアリング会社によるシュレッダー設置工事だった。急激に東北の鉄スクラップ流通が整備されていった。
 弊社はS58年磐梯事業部開設、産廃処理業に転じた日曹金属化学会津工場様が発生ドラム缶の処理に困っていてその処理から、10tトラックで町北へ運搬することで業務を開始した。
S62年末、勃興する喜多方ラーメンへの流入客が増え、喜多方市の入口にあるわが社の立地に違和感を感じて豊川町太田地区への本社移転計画を発表。
当時、父重四郎前社長は喜多方商工会議所副会頭、私は青年会議所福島ブロック副会長、翌年から喜多方青年会議所理事長を受ける予定。商業活動調製協議会が万能の時代で、全市議会議員の反対を受けて、その後数年にわたる苦難の時代が続いた。
S60年ブラックマンデー日経平均株価12,000円台、S64年大納会株価38,915円(この株価はR6年2月22日まで34年間回復できなかった)、その後9か月後に半値に下落、経済的な激動が続く。H3年バブル崩壊失われた30年が始まった。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.40から抜粋
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【コラム】同業5社比較2 /news/colum-5-companies-in-the-same-industry-1-2/ Sun, 24 Dec 2023 01:00:49 +0000 /?post_type=news&p=5184 続きを読む]]> わが社に関連のある同業者、①直富商事(株)長野市、②豊和商事(株)三条市、③山本産業㈱JマテH(株)上越市、④セキヤ(株)新潟市白根、⑤(株)青南商事弘前市との比較をしてみました。
当社は昭和35年、現本社地に土地取得、順次拡充、緑町ヤードと屋敷免ヤードからの国鉄貨車による鉄くず出荷がメインとなる。
昭和42年昭和電工喜多方工場が累計生産量35万トン達成、昭和48年第一次オイルショックの電力高騰のため徐々に生産量を縮小して行く。
国道49号線改良工事が昭和46年福取峠トンネル完成で一段落。昭和48年ダブリングシャー導入、熊倉町出身代理店から購入でこの投資は失敗だった。
人間関係に左右された設備購入で事前の業界視察が不足していた。
昭和50年国鉄スト権ストで全国の物流がストップし翌昭和51年わが社もトラックでの鉄屑出荷が開始された。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.38から抜粋
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【コラム】同業5社比較① /news/colum-5-companies-in-the-same-industry-1/ Wed, 20 Dec 2023 01:00:21 +0000 /?post_type=news&p=5177 続きを読む]]> わが社に関連のある同業者、①直富商事(株)長野市、②豊和商事(株)三条市、③山本産業㈱JマテH(株)上越市、④セキヤ(株)新潟市白根、⑤(株)青南商事弘前市との比較をしてみました。
創業の開始はわが社が圧倒的に早い。どこで後れを取ったのかを考えると、
❶まずは儲ける力、収益性が弱かったのではないか。
❷地域のニーズ、困りごとをとことん拾い上げることをしなかったのではないか。
❸売る営業を通した業界情報の収集が弱かったのではないか。
❹先を読む能力が弱かったのではないか。
❹は❷や❸を通して醸成されるもので、売り買いとも、営業力が弱かったのではないでしょうか。
これは今でもいえることで、このポイントで頑張れば、わが社の伸び代はまだまだあると思います。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.37から抜粋
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【コラム】創業のころ /news/colam-around-the-time-of-start-up/ Mon, 20 Nov 2023 01:00:40 +0000 /?post_type=news&p=5122 続きを読む]]> 明治26年初代荒川重四郎、喜多方市小田付道下七一三四にて資源回収業を開業。
緑町通り、緑町四四九四番地に本格的な木造二階建て瓦葺きの深瀬家(伯父深瀬幸助コウ夫妻)宅がある。
丸に吉の字の軒瓦、当時の屋号マルキチの痕跡が残っている。ここが荒川家本家、荒川呉服店跡。私が喜多方に戻ってきた50年前当時の業界無尽の一つに古着業無尽という会があった。
三井物産の祖業三井家越後屋も古着商売から始まったとの話から想像するに、荒川呉服店も今のような晴れ着の呉服ではなく、古着の行商が中心だったのではないかと想像する。
中央通りの相良洋品店はその前は末広町の一本東の通りの民家で行商を中心に発展して現在地に移転した。
同じく星幸商店も緑町ボタン屋文房具店と斎藤くるみ屋さんの間での創業。映画『てんびんの唄』の世界ではないだろうか。
ちなみに私の幼児期、子どもたちの間での荒川産業の呼称は「ぼろや」であり「屑屋(くずや)」の言葉は記憶にない。
兄の十三郎と力を合わせて家業を盛りたてた重四郎はやがて荒川重四郎商店として、緑町横丁で独立。
本家からの支援もなく裸一貫の厳しいスタートだったと聞いている。それを内職レベルの古道具屋として創業以前から支えたのが祖母リサ。
本当の創業者はりサで俺は本当は三代目だと、父二代目重四郎の言葉である。
当時の名残の古道具の数々、刀のつばはミカン箱に数箱が残っていたが、今あるのは金象眼の数枚と戦時に金物供出して残った槍の竿だけである。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.33から抜粋
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【コラム】Aパーツ設立の経緯 /news/colam-the-background-of-the-establishment-of-the-a-part-2/ Sun, 19 Nov 2023 23:00:25 +0000 /?post_type=news&p=5126 続きを読む]]>
1995(平成8)年11月
自動車リサイクル法の準備が進むドイツ、バイエルン地方を視察。
1996(平成9)年
年初:北越メタルH2価格12.7円/kg
11月:アマルク (現アマルク一ノ堰) 事業所開設、敷地2千坪
1997(平成10)年
年初:北越メタルH2価格 14.1円/kg
1998(平成11)年
年初:7.4円/kg
2/18:6.8円/kg(戦後最安値)
6/1:7.8円/kg
年初価格が前年対比半額を下回る中で、収益が確保できない厳しい状況になった。
12月、廃自動車(使用済み自動車)のマニュフェスト制が導入された。当社のアマルク事業所が会津唯一の鉄スクラップ産業廃棄物中間処理施設だったので、この優位性を生かすために隣接遊休地に廃自動車解体処理工場、中古部品製造保管施設を計画。
以下は概要
地域との融和を狙い、会津若松市に本社を置く(株)アマルクを資本金1000万で設立
会津若松市門田町大字一の堰字村西566―1 敷地面積5000㎡ 当時鶴巻鉄工建設の遊休鉄骨を利用しての工場建設
クーラントの再生販売、窓ガラス再生処理、バンパー他廃プラ処理も目的とした。平成12年容器包装リサイクル法、13年廃家電リサイクル法実施を控えて発泡スチロール油化、ガラスカレット砂製造、廃プラ破砕、廃タイヤ破砕を計画する。
結局自社での解体作業としたが、部品製造業という企業文化を生かすために、2000年6月(有)オートパーツアマルク設立、Aパーツと社名変更し現在に至る。
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【コラム】ドイツ視察(1995年) /news/colam-aizu-wakamatsu-management-quality-award-for-best-second-award/ Wed, 15 Nov 2023 01:00:15 +0000 /?post_type=news&p=5120 続きを読む]]> 1995年11月2日S11日。伊藤忠商事の提案で、自動車リサイクル法施行が予定されていたドイツ(98年から施行された)業界視察に参加した。
最大の目的がフォルクスワーゲン自動車リサイクル研究所の視察。VWライバルのオペル社といすゞが提携していて、いすゞの株主である伊藤忠商事の視察であることがばれてしまい、直前にキャンセル。
リサイクル関連メーカーの視察に切り替えた。自由時間ができドイツ在住の中学同級生宅に一泊お世話になった。
ミュンヘンからニュールンベルクまでの移動はドイツ新幹線ICEで二駅、改札のないホームまで出迎えに来てもらった。
翌日、鉄くずヤードの比重差振動分離機、河の港の鉄くずの山、ドイツ容器包装リサイクル法の民間分別ピッキングセンター(リサイクルできない残漬は東欧へ輸出との事でしっくりしなかったが、その後中国杭州でEUからの生活ごみ混じり古紙の分別所に出会うことになる)、市内に四か所ある行政のリサイクルセンターはアームロールBoxを数十台並べて品目別の持ち込み型、枯葉、便器類、木綿の衣類、ガラス4品目など、専任の人員がいて化学品持ち込み所もあった。
このイメージが古紙リサイクルBoxに結実。この時の土産がリサイクルミュージアムの”宝物“独デュアルシステムの黄色のポリ袋。
ICEでスイスヘ移動、田園の中に工業用地が細かく厳密に区分されていた。
郊外の機械メーカー数社訪問、それぞれに技術マイスターの高さを誇っていた。日本の絵が飾ってある工場が無人で、聞けば天気が良いので皆でキノコ狩りに出かけているとの事で産業文化の違いに驚いた。
この時乗せてもらった車がオペルブランドのいすゞ車。企画して頂いた大倉正寿氏は現在新潟工科大学理事長。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.32から抜粋
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【コラム】会津若松経営品質賞 2度目の大賞受賞によせて /news/colam-pfi-and-regional-plan-institute-2/ Mon, 06 Nov 2023 01:00:34 +0000 /?post_type=news&p=5115 続きを読む]]> 2003年(平成15年)1月 会津若松経営品質賞 平成14年度奨励賞受賞に至る経緯
今年の大賞受賞に先立つ20年前、荒川産業アマルク事業部(現在アマルク会津ーノ櫃)が受賞。
当時の申請規定は会津若松市内企業に限るとの縛りがあった。経営品質の流れと当社の取り組みを遡ってみる。
1987年 米国マルコムボルドリッチ国家経営品質賞制定
1995/12 (財)社会経済生産性本部に日本経営品質賞創設。2001アセスメント基準書発行
1997/08 末松清一氏を講師に経営品質講演会、38名参加。(当時事務局は会津若松法人会)1998年10月から同氏を講師に18名で月例研究会開始
1999/09 会津経営品質研究会設立。記念講演(千葉夷隅ゴルフクラブ支配人)参加者120人
2000/06 アセスメントコース研修開始。同年9月朝日山酒造ベンチマーキング実施
2001/11 会津若松市が会津若松経営品質協議会創設
2002/04 会津若松経営品質賞制定。荒川産業アマルク事業部が奨励賞受賞。2003年も再申請したが受賞に至らず。磐梯事業部で日本初の英国製無人遠隔操作作業機購入。7月星野リゾートが経営権を取得したばかりのアルツ磐梯で、第一回経営計画発表会を合宿で実施。各部屋深夜までの語り合いが続く盛り上がりだった。同時にlS014001取得キックオフ宣言。
2004/12 環境マネージメント14001取得。従業員持株会設立800万出資して資本金を鑓若栂唇営品員賞2200万円へ増資。
2005/01 自動車リサイクル法施行。決算期変更(12月→7月)と年3回の評価体制へ移行。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.31から抜粋
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【コラム】PFIと地域計画研究所 /news/colam-pfi-and-regional-plan-institute/ Thu, 02 Nov 2023 01:00:47 +0000 /?post_type=news&p=5112 続きを読む]]> 本社3階リサイクルミュージアム南側会議スペースの本棚に「喜多方市PFI推進委員会平成11年3月」と明記された緑色の調査報告書「喜多方市学校給食センターにおけるPFI事業のための調査事業」がある。
1999年平成11年7月PFI推進法成立。
PFI(プライベートファイナンスイニシアチブ)は英国で1992年導入、79年からサッチャー政権での規制緩和、「小さな政府」政策の中で多用された手法を制度化した。
民間の経営能力、ノウハウ、資金を使用して公共工事を行う手法で公民連携(PPP)の一つ。
国鉄、NTTの民営化とは違う、今回の会津若松広域組合焼却炉は、公設民営(DBD)の形でPFIーの一つの類型。
VFM(バリューフォーマネー費用に対して最も高い価値の提供を目指す)を理念とする。
前年に、PFI法を国会で推進するためのPR事業として、PFIの実施調査事業を自治省が募集しているとの情報が聞こえてきた。
実務は霞が関にあるコンサルタント、現地調査を推進委員会が担当するとの役割分担であった。
当時の白井英男市長は、喜多方市の財政再建を嘱望されての就任。
市職員の日常会話でもB/C(ベネフィットバイコスト)が合言葉であった。
市長の了解と「学校給食」のテーマを頂き、商工会議所会頭に委員長、委員を(株)ウエステックの株主、事務局を東条孝雄弊社専務(前市建設部長)にお願いして調査活動を開始した。
会議はリサイクルミュージアム会議室、事務局は三階企画室。この年、この成果をもとに(有)地域計画研究所設立。荒川産業の事業政策立案、地域への提言が目的であった。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.30から抜粋
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【コラム】会津若松経営品質賞のこと② /news/colam-the-aizu-wakamatsu-management-quality-award/ Mon, 30 Oct 2023 01:00:42 +0000 /?post_type=news&p=5078 続きを読む]]> 2002年4月会津若松経営品質賞制定。荒川産業はアマルク事業部で奨励賞受賞。
2003年も応募するが受賞には至らず。7月、第1回経営計画発表会をアルツ磐梯で合宿形式で実施した。
当時、32歳での社長就任から15年目。収益でも悩みが続いていて、父が死去した翌年での『経営品質』との出会いは衝撃的だった。
2014年、健吉社長就任時に、12年間の振り返りを書いた経営品質のメモがある。
『2003年会津若松市経営品質賞奨励賞受賞からの変化』(その後変わったところもあるが)
1 半年毎経営計画発表会が社内レビュー(リーダーによる進捗評価)として機能し始めた。
2 ベンチマーキングが実施された。全社員での新潟。管理者が留守番した丸山金属工業
3 双方向のコミュニケーション、経営への参画のため事業部方針が合宿で策定されている。
4 年3回の評価と賞与支給ルール化、能力給の導入、等級内相対評価、上司面談
5 事業場間社内情報共有のために、写真入りA4版社内報。年1000号を目指す。個人発行可
6 ありがとうカードによる感謝文化醸成。お客様への感謝の表明。発行者取得者の表彰
7 経営計画発表会での表彰、登壇者枠を社員の20%を目指す
8 会議、イベント時の社員満足度、移動希望,昇進への定期的無記名アンケート
9 ISO内部監査員養成、電話応対、コーチングの社内講師による社内研修
10 携帯型経営計画書、職場の教養の朝礼での斉唱、月1回の経営解説早朝勉強会
11 1ポイント500円のポイント制、無遅刻無欠席、無事故無違反、ボランティア、研修レポート提出、改善提案
12 社長と話す(飲み)会、誕生日別、地域別、開始と終了前全員のスピーチ
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.36から抜粋
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